待降節第2主日(A) - 2022/12/04-2022/12/11
2022/12/04 (Sun) 17:27:33
みなさん、こんにちは。
寒さが増してきましたね。
積雪しているところもあられるようですが、
みなさん、体調やお怪我に気を付けながら待降節を過ごしていきたいですね。
さて、今週は待降節第2主日です。
私が通う教会では、かなり厳しめの、
というより、それが当たり前なのかもしれませんが、
文字通りのお説教でした。
自分ばかりが良いものを受けて、それでいいわけではない、自分が許されたら自分も周りの人を許さないといけない、与えていかないといけない、という言葉が特に残りました。
自分に甘くなりがちなところがあるために、わたしの心に響いた言葉でした。
心、って難しいですね。
物、は比較的何とかしやすい気がします。
ちょっと(時にはかなり)我慢しさえすれば、比較的そこまで心乱れることなくいけるきがしますが、ひとたび、人を許すことだったり、その人との関係性を再構築することだったり、となると非常に心への負荷が大きいです。
でも、結局、問題はそこなんだろうと思います。
心から相手を思いやることができるか、
心から相手を許すことができるか、
心から神様を愛しているか、
長い時間がかかりそうですが、引き続き頑張ります。
さて、みなさんはいかがでしたでしょうか?
Re: 待降節第2主日(A) - duckbill
2022/12/10 (Sat) 16:54:57
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」
これは律法学者やファリサイ人に向けた洗礼者ヨハネの言葉ですが、これを司祭、司教、生まれた時からカトリックだという人に置き換えて聞きなさい、というような説教を聴きました。自分は司祭だ、修道者だ、司教だ、幼児洗礼だ、カトリック信者だ、ということで安心していてはいけない、と言われました。
ちょっとショックですが、もし信じているなら、その言葉と行いに表れるということでしょうか。救われるために打算的に行いを正すのではなく、イエスを信じて全面的に受け入れるなら、言葉と行いが自ずと正されていくということかと思います。
イエスと真正面から向かいその言葉に触れ、真剣に受け止めて前に進もうとしていない自分に気づきました。カトリックは特に秘跡があるので、それでなんとかなるだろう、と、たかを括っているようなところがあります。しかし、秘蹟とて信仰なくして効力を発揮するものでもなさそうです。神の前にへり下り、砕かれた心で近づく時、神の恵みは深く染み込んでくるのでしょう。待降節は信仰を始めとして、平和、希望、喜びへと導かれる霊的な旅の時だと感じます。まずは、どうか信仰をお与えください、深めて下さい、と祈ります。