四旬節第4主日(A) - 2017/3/25ー2017/3/31
2017/03/24 (Fri) 19:37:07
こんにちは
ご訪問ありがとうございます
もう何年もここで分かち合いをやっていますが
分かち合いのページを作ることが
だれかの役に立つのだろうか?と問いかけながら
参加者がいなくなれば閉めようと思いつつ
なんとか現在まで続いている次第です。
聖書の分かち合いが毎日の生活の中で、さまざまな出来事の中で、
聖書を通して語りかけられる神様との個人的な親しい関わりを持つ
きっかけのひとつとなれれば…と願っています
どなたでも、聖書を読まれた後であれば
何を書かれても結構です。どうぞ気軽にご投稿下さい
批判、批評など一切ありませんのでご安心下さい
今週の投稿期間
3月25日(土)~3月31日(金)
Re: 四旬節第4主日(A) - ひるた
2017/03/25 (Sat) 12:49:49
前回引用した、四旬節第3主日の福音朗読箇所、ヨハネ4章34節が、聖書と典礼に載っていないので仰天した。教会から帰って、私が使った「毎日のミサ」を開いたらあった。ちょうど省いてもよい所だったのである。今回引用するヨハネ9章22節も、そういう訳で聖書と典礼には載っていない。
ユダヤ人たちは既に、
イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、
会堂から追放すると決めていたのである。
ヨハネ9・22
「会堂から追放する」とは、フランシスコ会聖書研究所訳注聖書の注に、「ユダヤ人共同体から除名するの意」と記されている。
─共同体から除名される─これは恐ろしい事態なのである。今日(3/26)付のカトリック新聞1面の大見出しは─教皇、事業者に警告 雇用を奪うのは「重罪」─とある。その記事の冒頭を引用してみる。
─従業員の生計を脅かすような経営手法をとる事業者は、職員の家族の尊厳を奪う重罪を犯す、と教皇フランシスコは警告した。─
これはどんな職業にも言える。もちろん、どんな組織にも、どんな共同体にも。共産主義政権下のポーランドでも広範に起こったことだ。
雇用を奪うのは「重罪」である。従業員の生計を脅かすからだ。それは働いたことのある人なら誰でもわかるだろう。それを思えば、ユダヤ人共同体から除名されるのがどんなに大変なことか大方察しもつく。
それをユダヤ人たちはしようとした。「イエスをメシアであると公に言い表す者」に対して。
しかし、イエスによって目を開けられた、生まれつき目の見えなかった人は、真実を語って「外に追い出された」。
イエスはそれをお聞きになり、彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われる。そこで彼は「主よ、信じます」とはっきりと答える。
真に主に出会った人は、「イエスをメシアであると公に言い表す」ことを恐れない。殉教者たちも皆そうだった。
Re: 四旬節第4主日(A) - 南国ココナッツ
2017/03/31 (Fri) 08:12:45
サムエルはエリアブに目を留め、
彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
しかし、主はサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映るものを見るが、主は心によって見る。」
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
今週の?は「人は目に映るものを見るが、主は心によって見る。」と言われた主が選ばれたのが「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」ダビデでした。
そう、もちろん主は心を見られて決断されたでしょう。そして姿も立派だったんですね。
登場人物を少し調べてみました。
エッサイはユダ族出身でボアズとルツの孫で、ダビデはひ孫になります。
ルツはモアブ人でエリメレクと妻ナオミの子マロンの妻でした。エリメレクと子供二人(マロンとキリオン)とも亡くなったため、ルツは親戚のボアズと再婚します。ボアズとルツの子がオベデでエッサイの父、ダビデの祖父です。
ベツレヘムとは
エルサレムの南10kmにある町で海抜約775mに位置し、近隣のエルサレムと比べて30mほど高い。ユダヤ山地(英語版)の南方に位置する。
ガザおよび地中海から北東におよそ73km、アンマンから西におよそ75km、テルアビブから南東におよそ59km、エルサレムからは南におよそ10kmである。人口は約3万2000。ヘブライ語で〈パンの家〉を意味する。イエス様はこのベツレヘムでお生まれになった。4世紀にコンスタンティヌス大帝が降誕教会を建設した。
Re: 四旬節第4主日(A) - duckbill
2017/03/31 (Fri) 11:20:10
☆今週も福音書は長い方を掲載しましたが、「聖書と典礼」では紙面の都合上全文を載せられないのでいくらか省略して短くなっています。「聖書と典礼」の下の注にも書いてあります。
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「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされるものはみな、光となるのです。」
『明らかにする』というのは公に暴露するという意味ではない
と思います。別に公にしてもいいのですが、
公に明らかにしたところで必ずしも光になるとは思えません。
人は好き勝手に解釈し様々な反応を示しますしね。
じゃ一体誰に対して明らかにするのか?考えてみました。
神様はすべてをご存じなので明らかにする必要はないです。
むしろ明らかにするのは自分自身に対してだと思うんですよね。
人は案外自分のことが見えてないですから。
特に闇の部分からは目を背けています。
もし自分の闇と真正面から向き合ってそれを認識し、
受け入れるなら何かが変わり始めます。
今の自分を乗り越える時だと思います。
特にキリスト者は「こうあらねばならない」
という想いが先行して真剣に自分の闇と対峙することが
かえってできない場合があります。
またそうしていることさえ気づかないこともあります。
善悪の判断が先走りして、闇と真剣に向き合う余裕がない
んですよね。
むしろ、「こうあらねばならない」をしばらく忘れて、
未熟な自分だけを見つめ、人に明かせないような闇の部分を
直視して自分って本当はこうなんだ、と認めることができるなら・・・
闇があるところに光が射しこむわけですから、闇を認めた時にこそ
光が射し始める時だと思います。
ところで、告解が奨励される時期です。
神の代理として守秘義務を持った神父に打ち明けることは
カトリック信者にとっては良い機会ですね。
そこでは神に受け入れられ、神の愛に包まれる時ですから!