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KINOKOlogy 〈 聖書の分かち合い〉

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年間第22主日(C) - 2019/8/31-2019/9/6

2019/08/31 (Sat) 09:41:59

ご訪問ありがとうございます


聖書を読んで目に留まった言葉や句について
少し黙想したり祈ったあと
浮かんできたことを書いてみませんか
聖書は解釈を読んで納得するだけじゃ勿体ないです
神様は聖書を通して
あなたの心をどのように動かしましたか?
キリスト者だけではなくどなたでも
どんなことでも自由にお書きください

ご参加をお待ちしています!(*^▽^*)/


今週の投稿期間
8月31日(土)~9月6日(金)

Re: 年間第22主日(C) - duckbill

2019/09/05 (Thu) 08:07:38

一つ目のたとえ話。
宴会で上座ではなく下座を選ぶというのは
日本人にとっては普通の感覚だと思います。
たとえ偽善的な謙遜であろうとそれはマナーであり
常識となっています。
だから、へぇイエス様もそういう考えなのか、
とまず印象を受けました。
でも神が招く宴会だとすると、表面的な謙遜は通用しませんよね。
本当の謙遜で下座を選ばないと
神様から簡単に見破られてしまいます。
ミサの始まりでは罪の告白と回心の祈りをしますが
神の宴会に出席する時には口先ではなく心からの痛悔が
必要だと思いました。
それこそ本物の謙遜で下座を選ぶことになるのかな?


二つ目のたとえ話では自分が宴会をする時は
お返しのできない人を招きなさいということです。
貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人。。。
現実ではこういう人達を招く場面がすぐ思いつきません。
そこでちょっと考えを広げてみると、わたし自身が
善い行いが思うようにできない体の不自由な人であり、
イエスに従って真っすぐ歩けない足の不自由な人であり、
神の教えをハッキリ見ることができない目の見えない人であると
気づきました。
こんな自分を神様は宴会に呼んで下さり、
最高のご馳走をふるまって下さいます。
もちろん自分には神様に対してお返しできるものは
何も持っていません。
善く生きたいという願いさえ神の前には
お粗末なレベルなのですから。
ただただ神の恵みに感謝するしかない有様です。
その事実を痛く知れば知るほど、神の宴会に招かれた時に
上座どころか下座のさらに下座を探したくなります。

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