三位一体の主日(C) - 2019/6/15-2019/6/21
2019/06/15 (Sat) 14:49:31
みなさん、お久しぶりです!
久々に更新をしておりますkinokoです。
気候がおかしかったり
事故や政治情勢などいろいろな問題を目の当たりにする今日この頃ですが
みなさんは、いかがお過ごしですか?
神様に心を開いてお話してますか?
お祈りはしておられますか?
私は、本当に私事ですが、
この4月から予想以上の忙しさで
最初2ヶ月間ほどは徐々に心の余裕がなくなっていき
御ミサにあずかっていてもどこか心ここにあらずで
落ち着いて神様に心を向けることができなくなっていきました。
しかし、今月に入り、体調にも変調をきたすほどのストレスを
抱え込んでしまうようになり、
自然と、早く教会に行きたい、御ミサにあずかりたい、と思うようになり
1日の中でもときどき、短い時間ではありますが
神様に心を向けるようになってきました。
でも振り返ってみると
私がどんな状態であっても
神様はちゃんと導いてくださっているんだな
守ってくださっていたんだな
と、今わかります。
私自身、なかなか分かち合いの文章を書く余裕もないことが多いですが
今週はトライしてみたいと思っています。
みなさんも、それぞれのご都合もおありでしょう。
できるときに、もし気が向いたらぜひ
分かち合いましょう
お待ちしております
今週の書き込み期間
2019/6/15 〜 2019/6/21
ぜひどうぞ
Re: 三位一体の主日(C) - kinoko
2019/06/22 (Sat) 02:27:21
今回はまず第一朗読でちょこちょこ目に留まる箇所がありました。
『御もとにあって、わたしは巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって』
" 知恵 " が巧みな者となる、というところで
やっぱりさすが " 知恵 " だなぁ〜と。
知恵だけに巧みに、計略的に動けるようなそんなイメージを一瞬抱いたのですが、次のフレーズに新鮮な発見がありました。
日々、主を楽しませる者となって・・・
主を楽しませるために巧みに知恵を使うんだ!と。
来る日も来る日も・・・ですから、
あえて文字通り捉えたとしても
日々、知恵をしぼってあの手この手で楽しませようと
巧みになる
要は、知恵は神様のために巧みな者となったんだ
私たちの日常においても
知恵は、自分の私利私欲やわがままを通すために使うのではなく
神様を楽しませるために喜ばせるために使うのが本来の知恵なのか、と。
そして、その次のフレーズは天の国の状態を表しているのかな、と。
そんなふうに、ちょっと思いました。