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KINOKOlogy 〈 聖書の分かち合い〉

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主の洗礼 - 2019/1/12-2019/1/18

2019/01/12 (Sat) 11:57:26

ご訪問ありがとうございます


今週は「主の洗礼」です。

どうぞ気軽にご参加下さい。
ここでは聖書の解釈や議論、批判をしません
み言葉に触れて祈り、ご自分の生活に関すること、
出来事や、考えた事などを
分かち合うだけです
一緒に信仰の分かち合いができれば幸いです


今週の投稿期間
1月12日(土)~1月18日(金)

Re: 主の洗礼 - duckbill

2019/01/18 (Fri) 15:21:58

今週は「洗礼」について分かち合いたいと思います。

「洗礼」は一般社会でも「~の洗礼を受ける」などと言って、
普通に使われる言葉になっていますが、
秘跡として受ける洗礼は組織などへの入門式、
単に人が作った儀式ではない、と思います。
なぜなら、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」
と神ご自身がおっしゃったもので、神からのものであることは
福音書にも書いてある通りだからです。
自分の洗礼について、今一度
しっかりと厳粛に、そして本当にありがたい事だと
大いに感謝しながら思い出したいと思います。


洗礼を受けたからと言って、すぐに何か
ハッキリとした変化があったわけではありません。
でも、さまざまな出来事、人との出会いや関わりを通して
またわたしの歩みに伴って下さる聖霊の働きによって
すべての事を神との関わりにおいて受け止めるよう
導き養って下さり、少しづつ変化してきたと思います。
わたしは洗礼を受ける前は無神論者でした。
科学を信頼し、証明できないことは決して受け入れず、
死は無への帰結であると考え、
死後の命など子供じみた空想であると捉えていました。
苦しい時にも神頼みなどしたことがなかったのです。
無神論者の頃は、どんなことも自分の頭で考え判断し、
独りで生きていたので、苦しい時はそれなりに対処し、
とにかくこの世がすべてでしたので究極の絶望も味わいましたが、
ひとことで言うなら、無を諦観していたような
開き直りがありました。

一方「洗礼」は始まりでした。
自分からではなく、
愛し、守り、導いて下さる神がまずおられ、
神の方から招いて下さいました。
そしてそこから全てが始まりました。
洗礼は自分と神との出会いの始まりでした。
神の命の中に招き入れられる自分の本当の命の始まりで、
とてつもなく大きな恵みをいただくことになったと感じています。
もう独りで生きるのではなく、神と共に生きる新しい人生
が始まりました。
また神は教会の集まりの中で共に喜びを分かち合う
兄弟姉妹、聖徒の交わりに招き入れて下さいました。
もちろん、洗礼を受けた後も苦しいことはなくなりませんでしたが、
「無」と「あきらめ」は「永遠の命」と「希望」
に置き換えられました。
苦しみの印象もだんだん変わってきました。

洗礼を受けなければ決して見えなかったものを
見ることができるようになってきたと思います。
イエスの十字架は究極の苦しみの果てに何があるのかを
指し示しています。
今ではそこにはっきりと見えてくるものに向かう途上にあります。


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