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KINOKOlogy 〈 聖書の分かち合い〉

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年間第24主日(B) - 2018/9/16-2018/9/21

2018/09/16 (Sun) 00:06:37

ご訪問ありがとうございます!


長年この聖書の分かち合いをしていて思うのは
神の御言葉に向かって心を開き、
拙いながらも、何かを受け取ろうとする時
聖霊が働きかけてくださり、
何かに気づかせて下さったということです。
その何かの積み重ねがいつか具体的に
自分の中で実を結ぶ時が来るように思えます。
もう一つは現実でどんな問題に直面していても
み言葉とこのように過ごす時間によって
静かに、深く、癒していただけたということです。

よければあなたも始めてみませんか?
全国各地の教会でも
聖書の分かち合いをしているところはありますが、
時間の都合などで参加できない方は
是非こちらでどうぞ!

ここでは何かを教えたり、議論したり
勧誘したりということは一切ありませんので
どうぞご安心下さい。
心に響いたみことばや自分の考えを
シンプルにシェアするだけです


名前やその他個人情報の開示も一切不要です(^^)


今週の投稿期間
9月16日(日)~ 9月21日(金)

Re: 年間第24主日(B) ひるた

2018/09/17 (Mon) 02:39:49


年間第24主日

こんばんは。ご無沙汰しております。以前聖書の分かち合いに投稿していたひるたです。もう日が替わっていますが、昨日のことを今日といわせてもらいます。

今日の年間第24主日の分かち合いを書きたいと思います。

今日は所属の教会ではなく、娘と一緒によそのカトリック教会へ行ってきました。その教会のミサで、のっけから神父様が第2朗読「使徒ヤコブの手紙」の一節を話されました。曰く、

  行いが伴わないなら、
  信仰はそれだけでは死んだものです。(2・17)

私は以前、僕は言葉や行いを信用していない、ただ愛されているという信仰、これだけで十分だ、なぜとならば、言葉や行いは人を欺くが、愛されているという僕の信仰は決して僕を欺かない、という趣旨のことを書きました。

これはこの文脈で間違っているとは思いません。だからヤコブの言う「行い」とは愛の行いでしょう。愛の行いなら人を裏切らないからです。

私の文脈では、どんな立派な行いも意向が正しくなければ偽善なのです。偽善でもすべきだ、飢えている人が助かるのだから、という論はどこか誤っています。むしろこんなふうに言ったらどうでしょうか。

人の「立派な行い」を見て偽善と勘繰る前に、まず自らがその「行い」に倣おうとすべきだ、しかし人はともあれ、自分は真の信仰から湧き出る愛の心でしよう、と自分の心を吟味すべきです。つまり偽りの愛でその「立派な行い」をしてはならないのです。

神父様は炊き出しのこととか、ボランティアのこととかを話されませんでした。ただ教会へきて信徒たちと仲良くうちとけて話すとか、そういったことしか話されなかったと思います。大きな面倒なことを頑張るのもよいでしょうが、柔和で謙遜な心から出る、些細な小さな「行い」にも目を向けたいものだと思いました。

娘は長くミサに出ていなかったので、自分から告解したいといって、ミサのあと、ゆるしの秘跡にあずかりました。よい日曜日になりました。(ひるた)

Re: Re: 年間第24主日(B) - Franciscus Xaverius

2018/09/17 (Mon) 20:49:27

ひるたさん
なんとなく使い方も分かり、ひるたさんの私へのご依頼が理解できましたのでこの場をお借りして書き連ねます。

行動というものには真心を込めたものもあればお付き合いベースのものもあります。教会活動でも様々な催し物が開催されますが、そこに集う人の思いも様々です。
私たち信徒が神により愛されている。親が子に与えるような無償の愛をお与えになられ、都度赦しを乞う毎に暖かく迎え入れていただけます。
しかし私たち罪人はひとへの対価を求めがちです。
ここに愛は存在しません。
主は愛の実践と主に向き合うことを絶えずお求めになられていると思います。
愛の伴わない行動は主イエス・キリストにとって行動とも信仰とも言えないものであると思います。

娘さんが信仰を取り戻し、教会へ赴こう、そして赦しの秘跡を受けようと思われたことも主の取りなしであり、ひるたさんを通してその背後に主を捉えることができた証と私は思います。

ご家族での信仰生活というのはとても素晴らしくかけがえのないものだと思います。
これからもひるたさんご家族が主の栄光のもと益々穏やかで暖かな日々を過ごされることを心より願っております。

神に感謝

Re: 年間第24主日(B) - Franciscus Xaverius

2018/09/18 (Tue) 10:56:26

第一朗読は専制的で制圧的で大宇宙の強大な力によりこの世を救う救済者ではなく、私たち人間同様思い悩み、苦しみを受けながら苦難のうちに私たちの罪を一身に背負い私たちの生贄となり世を救うメシア(主イエス・キリスト)の出現を預言しています。

第二朗読は信仰と行動の一致、即ち主イエス・キリストが私たちに問う『愛』の実践こそが真の信仰の源であって、ひとが定めた戒律や型式の実践は『愛』とは乖離したものであり、主イエス・キリストの視点では行動とは呼ばないものと理解します。
従って信仰とは『愛』に基づく行動そのものであって、主イエス・キリストを認める者は主がなされたよう信仰と行動の一致が求められています。

福音朗読は主イエス・キリストがご自身をメシアであることお認めになられた箇所で、ご自身の最期を預言されています。
多くのひとは大宇宙の壮大な力を背景にしたメシアの再現を心待ちにしており、目の前の預言者をメシアであると捉えていません。
ひとを見た目で判断するという私たちの基本的な行動のひとつであり罪人であるが所以です。
主イエス・キリストに対するペトロの咎めも、信徒の頭に指名され有頂天になっているひとの罪の現れそのものと思います。
主は弱い者に寄り添い常に悩み、いつも我々人間共に傍で行動されました。そこでは互いへの思いやりと罪人同士の赦し合いの実践を問われました。これが父である神が主イエス・キリストを通して私たちに求めていらっしゃる教えです。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。
主イエス・キリストの後継司教職に対する主の思いと要求を述べられた箇所だと思います。

主イエス・キリストは父なる神を信頼しひととしての生を神にお任せいたしました。父なる神第一の僕として神の救済を信じ数々の屈辱と苦痛を耐えぬかれました。
「主なる神が助けてくださる」
私たち信徒にも人生に苦悩が付いて回ります。
主イエス・キリストが受難に耐え抜かれたよう私たち信徒も主が助けて下さると信じて愛の生活を実践してゆきたいものです。

Re: 年間第24主日(B) - duckbill

2018/09/21 (Fri) 20:36:13

「イエスは


人の子は必ず多くの苦しみを受け


長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され


三日の後に復活することになっている


と弟子たちに教え始められた。


しかも、そのことを


はっきりとお話しになった。」



まず、『そのことをはっきりとお話になった。』
というところに目が留まりました。

喩えや婉曲的な話し方ではなく
はっきりとお告げになった。
しかしその話は
苦しみを受け殺されるくだり以上に
三日後に復活することに至っては
全く想像もつかない、信じがたい話でした。
イエスと密接に関わっていた弟子達でさえ
信じるのが難しかったほどです。

ペトロはきっと
イエスさま、そんなこと言うもんじゃない。
縁起でもない!てなことを言ったんじゃないでしょうか?
そうすると
『サタン、引き下がれ。』
とイエスに叱られています。
ここで言われている「サタン」は
「神の計画に敵対するもの」
という意味で使われているということです。

では神の計画とは何でしょうか?

「わたしのため、また福音のために命を失う者は

それを救うのである。」

『命を失うものが命を救う』とはとても矛盾した
表現です。
命はこの世限り、死んだらすべて終わりです。
人間の知恵だけで考えればそういうことになります。
ペトロもそういう考えからイエスをいさめたのでしょう。

イエスがはっきりとお話になったというのは
まさに福音の宣言、神の計画だからだと思います。
死が終わりではなく、イエスによって新しい命が始まること。
これは人間の知恵ではなく神の知恵です。
サタンはこの世限りの命が常識となっている
人間の知恵に縛り付けておきたいのでしょうね。


後にはこのような弟子達も
復活したイエスと出会い、
聖霊の力によって目が開き、人間の常識から解放されて
信じることができるようになっています。
わたしも復活したイエスと度々関わることができ、
聖霊の助けによって、人間の知恵に縛られることなく
この福音を100%信じることができるようになりたい、
と思っています。





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