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KINOKOlogy 〈 聖書の分かち合い〉

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四旬節第3主日 - 2018/3/3-2018/3/9

2018/03/04 (Sun) 00:21:53

みなさん、お久しぶりです。
久しぶりにkinokoによる更新となり、更新時間が大変遅くなってしまい、申し訳ございませんでした

今日は移動時間が長かったりで、時間がなかなか取れず・・・
といった言い訳を
いつも自分にしながら
実は、この四旬節、わたしはまだ告解しておりません・・・

告解をする前には、良心の糾明、痛悔、生活を改める決心が必要となります(カテキズム)。
この「良心の糾明」が・・・痛くて
今日の更新が遅くなったのと同じ言い訳、「時間がない」
というのをいいことに、きちんと自分と向き合ってない原因となっています。

ほんとは、
「そんなんじゃない(そんなちっぽけな言い訳を言ってる場合ではない)、
ご復活を通してわたしたちに福音をもたらして下さったイエズス様に
神様に心を向けることに対して、
どうして、何が邪魔しているんだ!そんな場合じゃない」、
という気持ちもあるんですが。

今からでも、自分を見つめ直して
原罪をもった自分自身と向き合って(つらいですが・・・)
神様に心をひけらかして
和解させて頂きたいと思います。

さて、だいぶん前置きが長くなってしまいましたが、
みなさんは、どのような四旬節を過ごされておられますか?
ここは告解の場ではありません。
分かち合いの場です。
どうぞお気軽に分かち合いください。

書き込み期間
2018/3/3〜3/9

Re: 四旬節第3主日 ルキオ

2018/03/06 (Tue) 00:16:42

第二朗読より

ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。Ⅰコリント1・24

今回私が書こうと思うのは、上記の部分で、どこが私の興味をそそったのかというと、「……召された者には……キリストを宣べ伝えている……」という箇所です。あらかじめ神に召されたのなら、宣べ伝える必要があるのか。順番が逆ではないかと。

信仰は賜物であると言われます。「わたし」が神を選んだのではなく、神が先に「わたし」を選んだのだとも言われます。『カトリック教会のカテキズム』303から引用します。

「わたしたちの神は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩編115・3)
「人の心には多くのはからいがある〔が、〕主のみ旨のみが実現する」(箴言19・21)

つまり「被造物の自由な行動をも含めて」(カテキズム302)生起する出来事の絶対の主権者は神なのです。それと同じ道理だと思います。

神が人々を信仰に召されるのであり、パウロをはじめ宣教者が人々の信仰をかちとるのではありません。信仰は賜物です。神が先に召し(選び)、(選んだ者)召された者に信仰を賜るのです。

私たちが選ばれたのは私たち自身のためではありません。私たちを通して、他の人々に信仰が伝えられていくためです。もし私たちが無償の愛で選ばれたのなら、神はどうして他の人々を、同じ無償の愛で選ばれないことがあるでしょうか。

「選ぶ愛」は最後には「選ばない愛」へとゆきつくものだと私は思います。

ルキオ記

※『カトリック教会のカテキズム』302・303以下参照

Re: 四旬節第3主日 - duckbill

2018/03/07 (Wed) 23:39:43

今週の福音書について思いついたことを分かち合いたいと思います。


まずイエスの怒りと行動に目が留まりました。
イエスというと柔和で謙遜な人というイメージですが
ここでは違います。縄で鞭をつくって動物を追い払い、
商売人たちの台をひっくり返し
「荷物まとめて出てけー」というような
まるで激怒したオヤジみたいなことをしていますよね(^^;)

でもイエスは罪とは無縁の方ですから
その怒りは神の怒りでもあります。
キビしい言葉であっても、
人間の意地悪な言葉とは違い
真の救いの道へと導く目的があったと思います。

また忘れてならないのはイエスの場合
怒って終わり、ではなくこの後どうしようもないダメダメな
人間のために、さらに自分を傷つけた人のためにまで
自分の命を捧げたという事実です。
神との和解をもたらし終に人間を救ったという事実です。
人間だったら他人に自分の怒りをぶつけて言いたい放題言った後、
その人のために命を捨てるなんて行動を
起こすことはありませんよね。

次に「しるしを求める」ということについて考えてみました。
人は偶像が本当に好き、むしろそれを必要としている
と時々つくづく思います。
何が何でも寄りすがる対象を持ちたいというのは
本能的なもののように感じます。
わたしたちは目に見えないものより目で見えるもの、
この現実世界に存在していてハッキリ認識できるものに頼ります。
それが何であれ、たとえば金、権力、名誉、科学技術・・・
それらは大いに期待できる助けだと考えている人は多いでしょう。
また他にも人であったり、知識であったりします。

知識を深め広げることは喜びで理解の助けになりますが、
それで慢心して信仰が深まったと思うのは早計です。
知識だけに頼るのは「知識」という偶像を崇拝すると言える
のではないでしょうか。そうすると理屈は一見立派でも肝心なことが
空洞化して、かけ離れた別の何かになってしまうんじゃないでしょうか。

信仰は人の力、知識のみで無理やり
奪い取れるものではないですよね。
求めながら祈り続けるうちに、神と人との交流の中で
神の恵みによって深められ、与えられていくものではないかと思います。
知識を得てそれで良しとせず忘れてはいけないことだと思いました。

また、人はまるで磁石に吸い寄せられるように
理想的な何かを求めてしまいます。
たとえば「理想的な人」に心惹かれます。
それがイエスなら本当に全く問題ないのですけれど。
やはりイエスは見えないのでつい、
立派な事を成した遂げた人、あるいは尊敬できる誰かを
賞賛し自分の人生に必要な存在という位置に置いてしまいます。
人を尊敬することは悪いことではないのですが、
いつの間にか自分の理想をその人に投影して作り上げ、
ありのままのその人を見ようとせず、本来のその人を
無視した結果、これもまた偶像崇拝になってしまいます。
有名人などは分かりやすい例じゃないでしょうか。
怖いのは、「その人はコレコレしがじかの素晴らしい人だ」
と思い込み、その人がそれ以外の人であるはずはない、
あってはいけないというレベルにまで達してしまうことです。
そのような「立派な」レッテルを貼られた人は
逆にそれに縛られて、息も楽にできないほど
窮屈な思いで生きることになるかもしれません。
むしろもしそのレッテルに少しでも反するような
事実を暴露された時には最悪です。
今度は憎悪や嫌悪の対象にまで貶められてしまうこともあります。
人は誰もみな多少の違いがあっても
徳も完璧ではないし完全な知識にも達することができず、
十字架を担いでいる弱い存在だということを思い出すべきです。
そうすればむやみに人を偶像化せず、その人の
優れたところも劣ったところもありのまま受け入れ、
思いやり尊敬する気持ちを持つことができるのではないでしょうか。
それは翻って自分にもあてはまり、
ありのままの自分を受け入れることができるようになるかもしれません。

「イエスは、何が人間の心の中にあるかを

よく知っておられた」

イエスは良いところも悪いところも、
本人よりもよく知り、知り尽くしておられます。
その上でありのままのわたしやあなたを
愛してくださっている、それを思えば安心感が湧いてきます。

ところで、神が「秘跡」という目に見え触れることのできる
「しるし」を通してご自分の力を行使されるのも、
弱くあわれなわたしたちがそれほど目に見えるものを
必要としていることをご存じだったからではないのかなー・・・

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