年間第24主日(A) - 2017/9/16ー2017/9/22
2017/09/16 (Sat) 09:25:06
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9月16日(土)~9月22日(金)
Re: 年間第24主日(A) - kinoko
2017/09/17 (Sun) 15:21:11
「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい
罪人にはこの両方が付きまとう」
から始まる今回のシラ書、マタイによる福音の朗読箇所は
最近の私にとって、ハッとさせられました。
深い闇に中に沈み込んで何も見えなくなっていた私の目が少し開かれたような気がしました。
憤りと怒り…
他人に対しても自分に対しても
1日の大半を仕事に費やしている私の生活の中では
日常茶飯事の感情で、1日としてこの二つの感情からスッキリ解放されたことはないと言っても過言ではありません。
日常から笑顔は消えて…、
抑鬱傾向が出てくるのではないかと思うほどです。
常に緊張感の絶えない職場で、どの職場でもそうでしょうが、特に決して自分のミスも人のミスも許されない、かつ、自分の知識技術も常に磨き続けながら、スピード、タイミング、判断など、全てにおいて最善を求められる。
どこでも同じような状況の下でみなさんも仕事しておられるんでしょうけれど、当たり前ですが一つ一つ完璧を求められる。
当然自分だけではなく、同僚も先輩後輩もたくさんいて、自分だけではないんですが、私はそんな中で、憤りと怒り、これを感じる頻度が多いように思います。
年齢や性差、立場、生来のキャラなどの影響もあるのでしょうが。
まぁ特にここ最近においては、しばらく働きづめで休息がなかったのも原因かもしれませんが(笑)
ひとまず上記のように、「憤りと怒りを感じても仕方ないでしょ?」といわんばかりの言い訳をたっっっぷりと書いたわけですが、今日の聖書を読んだ時にはほんっとにハッとさせられました。
見えなくなっていたんですね。
あまりに目の前の小さな小さな事にピントが絞られ過ぎてしまっていて、周りが見えてなかったな〜と。
どんなに頑張っても、いつもいつも一人一人が100%完璧ではない、そのためにチェック機構も整えているし、事前にみんなでカバーしあいながら、支え合いながら、お互いに補い、補われながら、みんなで協力して、チームとして今の環境の中でできうる最善を尽くそうとしてる。
少なくとも、自分は絶対に完璧ではない。むしろ欠点の多い、注意が人一倍必要な人間だと思う。今までも、みんなに育ててもらってきたし、今でもみんなの支えがあって成り立っている。あちこちでいろんな人に許してもらいながら勉強させてもらってきた。そんな私が、人に対して憤りや怒りばかりを感じる資格はないんじゃないかと思う。
そういう見方だけでなく、みんな生活のある感情を持った傷を負った人間同士で、ロボットではない、人間らしい心を持っている。
仕事上で出会う全ての人たちに対して、いつくしみの気持ちで向かえば、
私たちは神様の被造物で、日々、神様に赦して頂いている。憐れんで愛してくださっている。
イエズス様は十字架上というこれ以上にない過酷な環境の中で、私たちの有様をみて、赦してくださった。それはずっと今も続いている。
私は視野が狭くなっていたばかりではなく、なんて傲慢になっていたんだろうと思う。
ほんとひどい。
客観的にみると、ほんとに “ひどく忌まわしい”!
ほんとは恵まれた環境なのに、
傲慢で自分の事ばかり考えているから(仕事も含めて)、怒りや憤りが出てきてたんだと思う。
私の場合は、ですけどね。
使徒パウロのローマの教会への手紙で言われているように
生きるのも死ぬのも主のため、
私たちはみんな主のもの、
神様に頂いたこのワタシというものを、自分のためじゃなく、主のため、と思いながら生活していけば、いろいろと見方や感じ方も違ってくるような気がする。
とりあえず昨日からやっと夏季休暇に入ったので、もう一度自分の生き様を見直して
お祈りしながら英気を養って、神様に導いてもらいたいと思いました。
Re: 年間第24主日(A) - duckbill
2017/09/22 (Fri) 22:25:55
今週の聖書を読んで印象に残った言葉・・・
隣人から受けた不正を赦せ
自分と同じ人間に憐れみを
憐れに思って、彼を赦し
借金を帳消しに
お前も自分の仲間を憐れんでやるべき
自分と仲違いした人と仲直り、というような
比較的難易度の低いレベルではなく、
ずっと高いレベルの赦しの話だと思いました。
一般常識からすると、
普通では考えられない程度の話です。
自分に不正を働いた人を赦す、
借金した人に金の返済を全く求めない、
というように・・・
しかしここで肝心なのは、普通だと
とても赦されるべきではない程の不正を、
つまり自分が犯した罪を
主人はまず先に赦してくれている、
という事実だと思います。
イエスのたとえ話では、自分の借金(30~40億円ほど)
を帳消しにしてもらっています。
そして不自然に感じたのは、帳消しにしてもらったにもかかわらず
それを喜んだとか、感謝した、という表現が
全くなかったことです。
そのため次の、今度は自分に借金がある人を赦さなかった話が
かえって自然に入ってきました。
もしあそこで、躍り上がるほど喜んでいたら
どうだったろう?
主人に心から感謝していたらどうだっただろう?
わたしも神様から赦されている喜びをどれほど
感じているだろうか?
神様に償えないほどの罪を帳消しにされたことを
感謝しているだろうか?と考えます。
さらに、それほどの赦しを受けているにもかかわらず、
自分が人を赦さなかったらどうなるのか?というと
「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、
家来を牢役人に引き渡した。」とあります。
確かに、心から兄弟を赦さないなら、
完全に赦すことができるようになるまで、
牢に繋がれます。
良心の呵責という、まるで重たい鎖に繋がれているような
暗くてジメジメした牢屋の中に心は閉じ込められます!
神に赦されている喜びと心からの感謝、
そして人を赦して得られる
軽やかな心の自由を味わうことができますように!