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KINOKOlogy 〈 聖書の分かち合い〉

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年間第14主日(A) - 2017/7/8ー2017/7/14

2017/07/08 (Sat) 11:09:08

こんにちは
ご訪問ありがとうございます


今週の聖書を読んで心に響いたところは
あったでしょうか。
どんなことでも自由にお書きください
分かち合いお待ちしています
気軽にご参加ください

今週の投稿期間
7月8日(土)~7月14日(金)

Re: 年間第14主日(A) ひるた

2017/07/08 (Sat) 13:26:07

福音朗読より

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイ11・28

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。マタイ11・29

私は先週、ちょっとした祈りの体験をした。ある日、不安に陥ったのである。在職中よくあった、病的な症状であると感じた。その時に黙想の種として反芻していたのが、冒頭に引用したマタイ11章28節、29節の言葉だった。

不安に陥ったのだから、当然、安らぎを求めていた。そこでイエスの許に行き、イエスの教えを聴いた。わたしに学びなさい、そうすれば安らぎを得られる、とイエスは言われていた。

イエスに学ぶとはどういうことか。イエスの「柔和」「謙遜」を身につけよ、ということだろう。だから私は、あなたに倣い、柔和・謙遜な者にしてくださいと、イエスに願い求めた。

家内にも祈るように頼み、柔和・謙遜を心して出かけた。そして不安に圧し潰されることもなく、却って慰められて、無事に帰宅することができた。この不安は、特に疲れているときに現れる。

そこで今日ここで分かち合いたいのは、祈る、ということについてである。
マタイ福音書21章22節は次のようだ。

信じて祈るならば、
   求めるものは何でも得られる。

「信仰を持ち、疑わないならば」。マタイ21・21参照。
「間違った動機で願い求め」なければ。ヤコブ4・3参照。

私たちはよくこのことを考える。自分はどれ程信じて祈っているだろうか、自分の祈りの動機は間違っていないだろうか、などと。

私はそういうことを考えても、考えすぎないほうがよいと思う。まず神の摂理に身を委ね、聖霊の働きに深く信頼して、祈る。その結果思わしくなくても気にしない。神の摂理に信頼して祈れば、いずれ晩年のヨブのように、「求めるものは何でも得られる」と思うからだ。

Re: 年間第14主日(A) - 南国ココナッツ

2017/07/08 (Sat) 20:15:25

すべてのことは、父からわたしに任せられています。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

現代は効率化と利潤を追求する社会です。これは企業だけでなく官庁、自治体、学校、病院、銀行などすべてに当てはまります。組織は存続していかねばなりません。そのために個人々はそれぞれの目標達成に向けて努力をしています。日々の業務を遂行する上での負担や苦悩、人間関係はどんな組織にもあるでしょう。また組織に入っていない人でもご近所の人間関係や家族の介護、病気、自身の健康、将来への不安などがあるでしょう。
この世に生きている人は誰しも肉体的、精神的な疲れや負担があると言っても過言ではないでしょう。
そんな中、今週は聖書のこの箇所が心に響きました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 」

洗礼を受ける頃、聖書でこの箇所を読んだ時、度々涙が出ました。色々な問題を抱えて大変な時だったので、神様の優しさに触れた思いがし大きな安心感がありました。自分では気がつかないうちに気が張っていたのかも知れません。
イエス様は良き理解者、いつでも、誰でも受け入れてくださる。世界中の多くの重荷を負っている人、疲れている人がイエス様を知り、イエス様のもとで重荷を降ろして憩うことができます様に。

Re: 年間第14主日(A) - duckbill

2017/07/12 (Wed) 11:01:31

マタイによる福音 11章25-30節 を読んで。



軛を負うということについて考えてみました。
まず二頭の牛が軛で繋がっている絵を思い出しました。
あれだと、二頭の牛は動く時も止まる時も
右に行く時も左に行く時も一緒です。
その絵に自分とイエスをあてはめてみると
動く時も止まる時もどの方角へ行く時も
イエスと一緒ということになります。
疲れた時、重荷を負っている時に
イエスのところへ生き、休めるというのは、
どういうことでしょうか?
イエスと軛でつながるほど密接に、何時もイエスと一緒に
生きるなら、安らかになるということでしょうか。
動く時、止まる時、どこへ行く時にも・・・
何時もイエスが共にいて動いて下さる。
確かにこれほど心強いことはないし、
すべてに勝る確実な道もないですね。
しかし、自分の日常を振り返ってみると
時々イエスと共にいることを意識しても
いつのまにか自分一人で考え、決断し、行動しています。
そして不安になったり心が騒がしくなっています。
もっとたびたび、イエスが共にいる「今」を意識し、
何を考え行動するにしても、イエスの考えに
目を向けていくようにした後、自分の考えや行動を
決めていけたらと思います。少しづつでも理想に近づけるように。

またイエスは「わたしは柔和で謙遜な者」と言われています。
それは軛で繋がるほどイエスと身近に過ごした時に
より深く味い悟れることではないかと思いました。
柔和で謙遜なイエス・・・そのようなイエスを
福音書の中に探し、そこで自分が実際に出会ってみる
という体験も役に立ちそうです。
私たちは誰でも一緒にいる人から影響を受けます。
どんな人と一緒にいる時間が長いかを考えてみると
どんな影響を受けているか客観的に見ることもできます。
イエスと一番長く一緒にいるなら必ずイエスの
影響を大きく受けるに違いないと思いました。


先週の初金曜日に教会でご聖体顕示の写真を撮る時
少し気が引けたのですが、「イエス様一枚いいですか?」と
たずねました。当然肉声で返事はなかったですが、
優しく謙遜なイエスの香りを感じることができました。
ご聖体の内に現存されているイエスは
天地の創造主である偉大な神です。その神が
目に見え、触れることができる小さな姿となって、
今わたしの前にいらっしゃるのだと思うと
これほどまで遜ってくださるのか!
と、まさに神の謙遜に触れ、感動しました。

Re: 年間第14主日(A) - kinoko

2017/07/14 (Fri) 02:09:25

今週は第2朗読の中で、心に留まったkey wordがありました。

『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり』
『キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません』
『イエスを死者の中から復活させた方の霊』
『あなたがたの内に宿っているその霊』

『霊』そのものや霊の存在、わたしたちの中にも宿っているという霊のことがとても気になりました。

まずは純粋に、自分の中にも霊が宿っているんだなぁ〜と感動しました。
ただ振り返ってみても、そのことを実感することはあまりないようです。

それに普段慣れ親しんでいる自分の思考回路は自己中心的だったり世俗的だったりで、あまり信者として好ましいものばかりではありません。
どちらかというと肉に従った生き方(自己中心的な生き方)がどこか染みついているような感覚があります。

洗礼をうけて、神の霊が自分の中に宿って、霊の支配下、キリストに属する者のはずなのに、肉に従った生き方を選択している、or 選択する傾向が強い自分は、矛盾していますね(汗)
でもきっと、毎週教会でこうして聖書の言葉に触れ、御聖体を頂くことで、気付かされて、軌道修正される、生きる道を示してくださる、これも霊のおかげなんだろうな〜と、自分の中に霊が宿っている、とういことになるんだろうな〜と、今実感できました!


ちょっと話は飛ぶんですが、
いつぞやの御ミサの中で、ある神父様が
「司祭は孤独なんです」と言っていました。
教会の中の問題を抱えていたり、かといって、仲良しだけで集まるということもできないし。だからこそ、1人になって神様と向き合って、神様がいつも一緒にいてくださっている、ということを信じないと、希望を持たないとやっていけないんです、といったような内容をお話されていました。

フランシスコ教皇はじめ、全世界の神父様達のために祈ります。

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