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キリストの聖体の主日(A) - 2017/6/17ー2017/6/23

2017/06/17 (Sat) 09:58:32

ご訪問ありがとうございます


今週は「キリストの聖体」の主日です。
心に響いた言葉はどこでしたか?
なんでも自由に分かち合ってくださいねー


今週の投稿期間
6月17日(土)~6月23日(金)

Re: キリストの聖体の主日(A) ひるた

2017/06/18 (Sun) 23:56:46


福音朗読より

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠の命を得、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。ヨハネ6・54

私たちは、このイエスの肉なるものが、ミサにおけるご聖体であることを知っている。しかし、当時の人がこの言葉を聞いたら、誰でも、ひどい話だと思うだろう。事実、ユダヤ人たちは激しく議論を始めたし、弟子たちもまたイエスに背を向けて去っていく。だが、十二人だけはとどまり、ペトロは代表して「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6・68-69)と答える。むしろこちらの方が不思議なくらいだ。

これは“霊”の働き以外に考えられない。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12・3)とか、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ・815)とかいうのと同じことだろう。神の計画は、“霊”のイニシアティブによって運ばれてゆく。

残った十二人の弟子たちも何のことかはっきり理解していたわけではない。つまり、イエスが「神の聖者である」ことを信じ、また知っていただけで、人の子の肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命に入る、などということには触れもせず、答えてもいない。したがって、もし話がこれで終わってしまったら、私たちには何のことかわからずじまいであったろう。

しかしイエスは最後の晩餐で聖体を制定される。目に見えるようにはっきりと。パンとぶどう酒の形態のもとに。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」マタイ26・26

「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」マタイ26・28

これを信じるにはやはり“霊”の働きが要る。そして「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)

Re: キリストの聖体の主日(A) - duckbill

2017/06/22 (Thu) 10:26:35

今週の福音書を読んで考えたことを分かち合いたいと思います。
(ヨハネによる福音 6章51-58節)

これを何度も読み返してみると
一つのことが浮き出てきました。
それは「これは生死にかかわる事だぞ」ということです。
その命とはこの世界を生きて死んだら終わりという命ではなく
未知の命、新しい命。永遠の命です。
なんとかしてその命を得させたいという思い、
イエスの熱い想いが伝わってきました。
ちょっとクサい言い方ですが…(;^ω^)

☆このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

☆はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、
その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

☆わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

☆先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。
このパンを食べる者は永遠に生きる。

短い箇所にこれだけ何度も繰り返しています。
しつこいと思えるくらいです。
よほど伝えたい想いが強く、何とか伝えたい、
どうしてもわからせたいというメッセージのように
心に響いてきました。

そしてだからこそ、最後の晩餐の時に
抽象的な何かのシンボルによってというより
具体的で直接的なことを通して
その手段が設定されたと思います。
それはカトリックでは聖体拝領にあたります。

ということは・・・聖体をいただくことは
とてつもなくすごい恵みなんですね。
イエスが直にこれを決めたのですから!

次の主日の聖体拝領が待ち遠しいです。




Re: キリストの聖体の主日(A) - kinoko

2017/06/24 (Sat) 01:48:54

ギリギリの投稿になってしまいましたが… (^^;

今週は キリストの聖体 ということで
ご聖体関係でどんなメッセージや気付きや学びがあるのかなぁ~
と、思いながらむかったのですが、
今回、気に留まったところは、意外にも、申命記の
「こうして主はあなたを苦しめて試し、
 あなたの心にあること、
 すなわちご自分の戒めを守るかどうか
 を知ろうとされた。」
という箇所でした。

特に、神様が私たちに対して知ろうとされているのが
「あなたの心にあること」
で、しかもその
「あなたの心にあること」=「ご自分の戒めを守るかどうか」
だった、というところ。

ふと自分のいつもの心の状態を振り返ってみたんです。
わたしの心にあることって何が多いかな~、と。
日常生活の中で、仕事の中でいろんな判断をする時だったり
人と接していく中での自分の対応(を選択する時)だったり
いろんな局面で、いつも神さまの教えを守るかどうか、
そもそも、意識さえ、していたかなぁ~、と。

正直に言うと、意識さえしていないことの方が多いです。
(神様、ごめんなさい)
意識した時でさえも、守れなかったことも多いです。
今までのところは、きっと神様は私に対してがっかりなさったことの方が多いんじゃないかな~と、ほんと思います。
(神様ごめんなさい)

二つの掟、隣人への愛、神様との愛、
普段の”厳しい”と言われている(思い込まされている?)この社会の中でのいろんな試練に比べると、
「あ~愛すればいいのか!」と一見、優しいようなイメージさえ抱くことがありますが、これがなかなか
自己中心的な自己愛、とでも言うんですかね~、そんなものがものごっつい邪魔をして、なかなか愛の掟を守るのは難しい、いつもいつもそう簡単にできないような心になってしまっている、そんな現実があるような気がします。

だけど、
こんな私のために、神様はイエズス様を通して
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
 永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」
と仰って下さっているんですよね。


言葉になりませんね。
神様の愛は、私には到底想像すらできません。

だけど、とにかく、ご聖体がどれだけすごいものなのか、
イエズス様の人間と同じように持った肉体が死んだ後
時間や空間を超えて広がっていったご聖体が本当に
罪深い私にとってはありがたく、そして毎週のご聖体が神さまの私たちへの愛の印なんだろうなぁ~と、感慨深く思いました。

そんなご聖体を毎週いただけるのは幸せなことだな~と思いました。

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